教科書に載せたい話題

ありがとうという言葉が存在する意味(全ての言葉は闇)

さぁ、今日も猫に感謝し、猫に学びましょう。

猫はコミュニケーションの達人です。仕草、目線、表情、声を必要な分だけ出し、時には物を使って音を鳴らしたりと、その目的に最適化された表現をします。嘘をつかないし、罵ることもしません。完成されたその表現は、一切の無駄がなく、気高く、美しいのです。

比べて、現代の人間社会で使われる言葉には、不必要な闇が多く潜んでいると思うのです。

 

言葉を操る全ての人に読んでもらいたい

「現代人は、全ての言葉を冒涜し、全ての言葉は、汚染されている」と問題提起します。

「情報が溢れて、複雑な社会だ」と聞くようになって久しいです。「複雑にこんがらがった社会だ」…あの名曲は何年前だ。

今回は、複雑な社会に長く影を落とす「言葉の闇」に、猫の力を借りて、(薄い知識で、無謀にも)迫りたいと思います。

ただし、ひとつだけ汚染されずに残っている言葉があるとすれば、それは『ありがとう』です。『ありがとう』だけは、闇を感じないのです。もしかすると、全ての言葉のベースになるワードこそが『ありがとう』なんじゃないかと。

そんなことを、今回は考察してみたいと思います。

 

前提その1 汚染された言葉が、大量に流れてくる時代

インプットの闇です。

現代は、情報を浴びる時代と言われます。「情報の民主化」なんて、鋭い響きですよね。

無限の情報から無限に産まれる、無責任な情報を浴びて、迷いや悩み、ストレスを感じている人は一体どれぐらいいるのでしょうか。特にネットやマスメディア上で発信された情報は、その真偽に関わらず、一度に多くの人に伝わり、共感と反感を巻き込み、ものすごい力で拡散されて、私たちの元に押し寄せてきます。

こういったバズや炎上の仕組みは、まずニュースが流され、そのニュースに共感や反感が議論され、さらに拡散される、という、実にシンプルな構造です。

そして、悲しいことに、行動心理学上、ネガティブニュースやフェイクニュースのほうが多く、そして速く拡散されてしまうのだそうです。

ある研究結果によると、拡散に関わる人は、全体のわずか7%だそうです。

誰かが、(悪意を持とうが持たまいが)発信した、ネガティブやフェイクな要素を含んだ情報が、ごくわずかな人の行動によって、倍々に拡散され、いつの間にか権威性をまとって私たちに届いてしまい、ついつい影響されてしまう、という迷惑な仕組みなのです。

無限に押し寄せる波のごとしです。

この仕組みを理解して、うまく目線を調節したり、取捨選択をしたりしないと、情報の波に(時間的にも精神的にも)溺れてしまう、といった、インプットの闇です。

元々、頼んでもいない、大量の情報が、「大げさ」だったり「誇張」されたり「曲がった」情報だったりして、実際の情報量よりもさらに雑多に感じてしまう、ということです。

 

前提その2 「自分/相手」に「タイムリー」じゃない言葉ばかり

猫(=⓪・⓪=)「人間は、いつも雑音を立て過ぎてうるさいニャ」

「仕分け」の闇です。

情報が民主化された今、当然のように、自分で情報の取捨選択をしなければなりません。

しかしいつまで経っても現代人は、他人事のニュースに共感/反感し、議論し、拡散してしまいます。

「脳」には、[仮置き場]があります。仮置き場はあまり広くありません。情報が溢れる前に仕分けしないと、正常な判断機能が停止して、エラーが増えたり、すぐに流されたり、逆に頑固な思考になってしまいます。

仕分け例を挙げてみます。大きく分けて四種類です。

①自分事に当てはまり、役に立つ

②自分事に当てはまるが、役に立たない

③他人事だが、将来役に立つかもしれない

④他人事で、役に立たない

うまく仕分けできているでしょうか?(詳しくは効率的なインプットの記事に書きたいと思いますが)仕分けを上手く&速くできないと、今の時代、自分だけではなく相手の時間(=生きている時間=命)まで奪ってしまいます。例えば、ツイッターに一日中かじりついてしまう人になってしまって、人生で最も貴重な時間を、膨大に失ってしまいます。(私です。必死で邪念を振り払ってアウトプットしています)

(ここでの「自分事」は、読む人の状況によって変換してください。[自分+周りの大切な人]なんかでもいいですね。)その上でハッキリ言いますが、必要なのは①のみです。①以外は、仮置き場からも即削除するべきです。

共感や反感も所詮他人事なので、行動には一切つながりません。つまり、時間と脳内ストレージのムダなのです。

行動に即つながる、自分に役立てられる情報だけでいいのです。行動すれば、必ず次の段階に移行するので、自分が欲しい情報は、微妙に変化していきます。欲しい情報は、自分で決めて、自分で取ればいいのです。取捨選択をしっかりすることで、忙しい時間だけでなく、癒されたい時間の質も上げることができます。

猫に学ぶ

✔むやみに干渉しない

✔むやみに他人を攻撃しない

✔自分と向き合う時間を確保する

前提の前提として、発信する前に一次ソースを追う、エビデンス(証拠・根拠)を確かめる、といった行動は重要ですね。デマを拡散する行為は、いとも簡単に被害者を生んでしまいます。(被害者の発生に伴い、法規制も進んできています)

特に、困ってる時や急いでる時ほど、タイムリーでもない不正確な情報が来ると腹が立ちますよね。

猫理論上、近未来、発展した言語社会では、関係ない情報は「捨てる」・「人に投げない」が鉄則となりそうです。なかなか難しそうですけどね。捨て垢で人にむやみに絡む行為とかも、ほどほどにしましょう。

有効な手段として、「自分がフォローしている発信者を常に断捨離する」という方法を挙げておきます。

そして、自分も、フォローされるに値する人物かどうか、常に客観視することが理想的でしょう。難しいですが。

情報を浴びているのは自分だけではありません。自分が何か言葉を発信したとして、相手がうまく仕分けできるとは限らないのです。もし相手がうまく仕分けできたとしても、①に値する情報じゃなければ、無意味どころか、相手に向けてゴミを送りつけていることになるのです。

悩みの多様化なんかもあるのでしょうか。非常に「情報のピント」が合いにくい時代だと思います。

絶望的に無駄が多いです。しつこいですが、多くの人が「今」を生きていない。私が後悔しているので、強く言わせてもらいます。遡って、視野を広げて見ると、「保険文化の弊害」の影響が、現代の「無思想」な社会を形成している気がしています。

「ジリ貧」という言葉がぴったりな社会になってしまった。「攻め」を重視する者がかけるのが「守りの保険」ならば、「守り」を重視する者がかける保険は「攻め」でなければいけなかったのではないでしょうか。反省です。

しつこく言い過ぎましたが、情報をいったん整理する意味で、「今」の「自分(+大切な人)」だけでいいです。今ゴチャゴチャしてる人が「将来の子供のためになりそう」と考えることも、押しつけであり、エゴです。今のあなたの行動が、将来の子供の行動になります。「今」を生きるしかないのです。

 

前提③冒涜され、撒き散らされる、ネガティブな言葉の渦(そして疑心暗鬼へ)

ネガティブな言葉のほうが拡散されやすいことは前述しました。

猫に学ぶ

✔常に快適な場所(最適な環境)を求めて全力で移動し、全力でくつろぐ

✔メリットのある人/猫に、都合の良い時だけ、近づく

✔デメリットのある人/猫には、一切干渉しない

ネガティブな言葉は、法律や、それぞれのコミュニティ内で、ある程度、使っていい言葉と、使ってはいけない言葉に分けられています。当たり前ですが、使ってはいけない言葉以外は、使ってもいいことになっています。「言論の自由」という、憲法で認められた人権のひとつですね。

しかし、ただ使っていいというだけで、乱用してしまっては、前述のとおり、結局害悪にしかならないのです。使っていい言葉と、使うべき言葉は、大きく大きくかけ離れているのです。

しかし、ネットやマスメディアをはじめ個人まで、(あろうことか、公人までも)世の中、至る所で無責任な発言が、さも当然のように横行しているのです。ここで言う「無責任」とは、「ネガティブ度に応じた解決案を示さない」ことです。私は関西出身です。その影響か、ただの捻くれか、オチ(解決案)の無い、問題提起ばかりする番組が昔から嫌いでした。

相手がすぐ抜け出せるような、軽いトラップ程度ならまだいいのですが、言葉ひとつひとつには、相手を暗い迷路=ダンジョンの奥に叩き落とす要素が含まれていることを、私は主張したいのです。言われた言葉がネガティブかポジティブかは、受け取った相手次第なのです。

言葉汚染=ひとりひとりの人間による未発達な言葉の投げ合い(=過去への冒涜行為とも言える)のせいで、想像力や、問題解決能力の無い社会になってしまったのではないのか。本来、議論され、変化(発展もしくは最適化)するべき自然な流れが、大きく阻害されているのではないか、という仮説です。

もちろん、社会情勢が難しい局面なのが最も大きな要因です。しかし、困難な局面だからこそ、より一層、相手や社会に思いを馳せた発言を重視するべきではないでしょうか。口は災いの元とはよく言ったが、口は社会停滞の元と言える)

元来、言葉ひとつひとつには、誰かの功績が刻まれているハズなのです。誰かが、迷路となった暗いダンジョンに入り、地図を記し、そのダンジョンの全貌を明らかにしたのが、「言葉」なのです。明るいと思われる言葉にも必ず闇が潜み、暗いと思われる言葉にも必ず出口があるのです。

例えば、「頑張れ」という言葉は、もう単体では使えなくなってしまいました。「もう十分頑張っている。これ以上無理強いするな。これ以上頑張らせて、壊れたら誰が責任取るんだ」となるのです。こういった現象が各ワードで起きています。これも時代の変化です。

現代社会が面している局面から、今起きている議論の多くは「世代間抗争」関連なのではないでしょうか。語弊を恐れずに言えば、老年期を迎えたベビーブーム世代が(図らずも??)利権を身にまとい、情報を歪曲し、教育を腐敗させ、圧倒的な力で現役世代に襲いかかっている構図でしょう。(私も現役世代なので、こちら側から言わせてもらいます。なるべく中立に言えるといいのですが)

「軽減税率は不公平だ」

「テレビに出てる芸能人が脱税して捕まらないのはおかしい」

「我こそが弱者だ。手取り14万、日本終わってる」

「年金返せ!」

なんだかなぁ、と首をかしげてしまうような中途半端な議論が飛び交っています。そして、中途半端な議論は、敵から見ても好都合な煙幕になってしまうのです。この例で言うと、利権という本質に、全く届いていないのです。惜しいところまではいくのですが…

そもそもが個人の主観的な発言にとどまり、本質的な発信じゃないから、届かなくて当然なのです。

上に適当に挙げた「 」内の言葉を見て、どうでしょうか?変えたい、という姿勢は良いのですが、パワーが全く集中してなくないですか?

[クリティカルシンキング]という、カッコいい言葉があります。世の中を変えるのは、[会心の一撃]でなければいけないのです。「 」の言葉は、会心でしょうか?それとも[ミス!]でしょうか?なぜ、専門家に意見を求めることに注力できないのでしょうか?

特に、(ネガティブをポジティブに変換する)パワーが問われる、センシティブ(微妙で慎重を要する)な言葉においても、あまりにも無責任な乱用が目立つのです。そして、もはやセンシティブじゃない言葉を見つけることが難しいのでは、と思うほどに、人々は過敏に、そして疑心暗鬼に陥っています。(例:おはよう=セクハラなんてもはや後世に語られる黒歴史かも)

「言葉狩り」なんて、最もやってはいけない愚行の極みではないでしょうか。臭い言葉に蓋をする、問題解決から最も遠ざかってしまう、「言葉狩り」こそ、偉大なる先人たちへの冒涜です。

そして、言葉に対する疑心暗鬼は、いとも簡単に「情報弱者」を生み出します。情報の真偽をまともに判断できない、調べ方がわからない、言葉の真意を探る想像力がない、言葉の表面を鵜呑みにして、間違った判断をし、間違った情報を拡散してしまう、危ない大人になってしまいます。世の中が完全に平和ならいいのかもしれませんが、平和かどうかはやや疑問です。詐欺、悪徳商法、悪徳宗教、その他、危険な思想の被害に遭う(もしくは加担してしまう)ことが、簡単に想像できてしまいます。また、権力者などの社会的強者が情報弱者の場合はもっと厄介で、社会に、問題解決を遅らせる、大きな誤解と混乱の影を落としてしまうのです。(なんでもかんでも情報弱者という風潮は嫌いです。社会的弱者と情報弱者は全くの別物ですが)

「情報格差社会」と言われて何年か経ちますが、

①情報の闇を回収・処理し、シンプルに情報として捉えられる人

②情報の闇の部分に敏感に反応して、迷い、疑い、正確に情報を捉えられない人

真っ二つに分断される「疑心暗鬼社会」です。この流れは加速しているように感じています。

大勢が疑心暗鬼なので、ネガティブ語を放つと一瞬の共感こそ得られますが、それは、同じダンジョンの闇の中で、ただ身を寄せ合っているだけに過ぎません。

そして、闇の中にいつまでも留まってしまうと、やがて、生きるために罵り合い、奪い合う「共喰い」が起こってしまうのです…。

 

結論 「ありがとう」こそ、「信用」であり、闇を照らす光(ギバーの時代へ)

美徳{ほめるべき、うるわしい徳。人として望ましいりっぱな心のあり方や行い}

私が信じていた、日本人の「美徳」は、一体いつの間に、どこへ消えていってしまったのでしょうか?

いいえ、消えていないハズです。罵り合う双方ともの、それぞれのコミュニティ内での会話を聞けば聞くほど、美しい言葉や信念は、確りと残っています。そして、それぞれのコミュニティ内での話を聞けば聞くほど、着地点が同じなのです。要は、何らかの要因が、視野を狭めているのです。その要因が、世代間抗争なのか、義理なのか、人情なのか、カネなのか、私利なのか、私欲なのか、よくわかりませんが。

社会の発展や最適化を止める要因は、素人にはよくわからない。しかし、資本主義における発展が起こる要因だけはわかったのです。簡単に言うと↓のようなフローです。

「困った」が「やってみる」を産む

「やってみる」が「信用」を産む

「信用」が「カネ」を集める

「カネ」を使って、「仮説、検証し、やがて実現」する(ありがとうが発生する)

社会の発展や最適化は、難しそうに聞こえますが、実は、社会から「ありがとう」を生み出すという、非常にシンプルなものです。現代は、ひとりの人間が、目の前の相手の「ありがとう以外の言葉」から「ありがとう」を引き出すために全力を尽くす。「ありがとう」に集中するべき社会になったと言えるのです。

「高度経済成長期」1954年あたりから始まったこの景気の恩賜を受けて育った世代は、「ありがとう」が当たり前でした。まさに、通常では「有り難い」経済成長を遂げたからです。

今、この「ありがとう当たり前世代」が作ったインフラの老朽化、年金制度の欠陥、少子高齢化社会の問題によって、当時とは完全に真逆の社会になったと理解するほうが普通でしょう。「ありがとう衰退世代」です。

「頑張れ」などが限定的な言葉になったのは、「ありがとう」が限定的になったからです。「今の時代にありがとうなんて軽々しく言えるかよ」といった感覚でしょうか。

言い方は悪いですけど、昔は「ありがとう」が溢れ過ぎていて、どうしても取り扱いが雑になっていたのではないでしょうか。自ら信用を取りに行かなくても、容易にカネが集まった時代だったようなので…。

今の時代がもし「衰退世代」なんだとしたら、「発展」じゃなく「縮小」に近い感じで変革をやらないといけないと思うんですよね。「最適化」と呼んでいますが。企業で言うと、リストラだったり、吸収合併だったり。それには、上のフローのようにカネを集めてどうこう、だけでは無理だと思うのです。

家族でもそうですよね。「パパ、会社に居づらくなって辞めたんだ。来月から遠方に転職なんだ。だからお金送るね」だけだったら、ちょっと寂しいですよね。

「パパ、会社に居づらくなって辞めたんだ。少しの間貧しくなるけど、パパも頑張るから、家族で力を合わせて生きていこう。みんなの意見を聞きたい」とかだったら、なんか温かいですよね。

「信用」だと思います。

カネは、信用を具現化する一つの道具に過ぎません。猫から見ると、紙幣は「ちょっと綺麗な紙切れ」硬貨は「汚い金属」です。「実体のない、バブル的なカネ」もあるようですし。

猫理論(研究中)によると、カネの役目は、その一部が「信用」に取って代わられてきています。「信用」の内訳は、「ありがとう」の獲得値です。

人の持つ問題に寄り添い、地図を示し、現在地を示し、解決まで導いた場合に、結果として得られるものが実質の「信用」であり、実質の「ありがとう」です。悩んでいた当人からすれば、カネでは買えない、かけがえのない「光」を得たのですから。一方、叶えた人は、カネでは買えない絶対的な信用(=ありがとう)を獲得し、存在(や活動)を大きく肯定されることになって、さらにその行動に拍車がかかるのです。カネではなく、信用に注力する存在(=ギバー)こそが、これからの滑らかな社会のカギとなる、真の経営者であり、真のインフルエンサーなのではないかと思うのです。

 

まとめます。

現代社会の人々が、猫のように、シンプルに「自分と相手のダンジョンの出口=目的」と「お宝」のことしか話さない世の中になったら、どれだけ不幸な人が減り、どれだけ心が豊かになり、どれだけ滑らかになり、どれだけ発展(最適化)するだろうか。

猫は、こちらが優しくすれば、とても優しい目で返事をしてくれます。そして、日々少しずつ、警戒を解いていってくれます。その信用は本人の命そのもので、嘘なんかは一切ありません。これが人間でいう「言葉」です。

そもそも、言葉は汚染されてなんかいないのです。一時的に汚れたフィルターが、人々の目の前にあるだけなのです。

これから、必ず、言葉と信用が大切に扱われる時代がやって来ます。個々が、今一度、誰に言われずとも、ネット社会の言語と向き合ってみてください。

言語が、そのまま脳になります。脳は、外部に神経を張り巡らせ、そのまま社会を作ります。まずは、あなたの周りに、あなたの思うままの社会が出来上がるのです。

カネはやや汚染されてしまいましたが、信用はカネより正直です。

信用にカネがついてくることが、本当のインフラだと、私は思うのです。

インフルエンサーの時代…全ての活動的な人たちが、それぞれの全力で、カネではなく「信用」を稼ぎに奮起したら、と想像すると、どうだろう。

ブロックチェーンや信用スコアなど、キーになりそうなツールの開発も進んでいます。

利権を壊すとか、世代間抗争とか…ロジカルシンキングやクリティカルシンキングとかもですが、難しいことは一旦専門家に任せましょう。

日々積み重ねるべきは、目の前の「ありがとう」です。

 

本当に長い駄文になってしまいました。読んでくれた方がいたら、本当に「ありがとうございます」