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リベラルアーツの本質を、簡単にまとめてみた

リベラルアーツとは(現代版)

 

専門分野(メカニカルアーツ) ⇔  リベラルアーツ

 

原義は古代ギリシャの教育に由来しており、そのルーツは、奴隷だった人たちを自由民として受け入れ、教養を高めるための学問だったようです。

 

日本では[教養教育]や[自由のための学問]と訳されています。

「日本では、リベラルアーツが正しく理解されていない」という文面も見かけられました。確かにそうかも、と思いました。
なぜなら、[科目のような扱いになってしまっている]からです。就職活動に間に合わせるために、自分の専門科目を決めるための足掛かりにされているに過ぎないのです。…これは非常にもったいないことです。

 

世界的に見ても、リベラルアーツを大学で4年間学んで、さらに大学院まで進学することが前提だったりと、なんだか大層ものとして祭り上げられてしまっているようです。

ただ、アメリカでは2016年あたりから、市民が市民参画するための学問として、再びリベラルアーツの重要性を唱える声が大きくなり、一部の大学でのカリキュラムも作り変えが進んでいるようです。

リベラルアーツを取り扱う大学の学長のスピーチも参考にしました。「長い間、専門分野側が幅を利かせやがって、自由一般職側も同じぐらい偉いんだぞ」的な対立論調はやや毒でしたが、現代版リベラルアーツに関する理解はかなり深まりました。

 

教養を教える者がいない、今の日本社会には、必須であると断言します。

 

 

 

結論(リベラルアーツの本質)

 

本質「新たな価値の発見を目的とした教養」

 

専門分野(メカニカルアーツ) ⇔  リベラルアーツ

 

こんな図式を、勝手に作りました。

アリババの会長であるジャック・マーさんの言葉ですが、

“世界は、IT(アイティー) (Information Technology) から、DT (Data Technology)に変わっている。”

とのことです。要は、「メカニカルな分野は機械に置き換わり、人間は、クリエイティブで建設的なことができるようになる」と言うのです。

 

リベラルアーツの本質と必要性を説く上で、もう、これ以上の説明はありません

 

一応、補足としては、[専門分野を応用するための教養]や、[応用すること全般]または、「色々な分野に興味もって学んでおけば、それらをつなげることが仕事になる時が来る」とでも言いましょうか。

日本では「勉強の対義語」と言えるのかもしれません。

なんだか、一休さんのとんちみたいですね。

 

…ぼんやりとですが、「リベラルアーツは、学校だけで学ぶものではないな」と思いました。

 

日本の労働者は、幸福度が低いと聞きました。不幸の源流は、もしかすると、[単なる教養不足]なのかもしれません。

 

リベラルアーツで得られるもののひとつとして、[個性の安全基地]たるものがあります。

 

一家に一台リベラルアーツ、いや、一億総リベラルアーツでしょう。

 

こんな現代だからこそ、リベラルアーツは、個性を救う。アイデンティティのベーシックインカムとなりえるでしょう。

 

 

 

リベラルアーツの利用目的

 

✔行動(つまり、発見)《分割された専門分野を結びつける》

 

・自分の情報を発見

・自己の発見

・相手の情報を発見

・共通点の発見

・議論の発見

・価値の発見 など

 

リベラルアーツ的な行動とは、何を見聞きしても、「お、これは〇〇に応用できないかな」とか、「ほう、なかなかの難題だ。だが、この問題解決に最適な情報は△△あたりにありそうだ」みたいな発想をずーっとしてるようなイメージです。

 

食材を、余すことなく全て使い切る料理人のようですね。

 

 

 

リベラルアーツで最も重要なこと(実践)

 

思考と行動が連続されていること

 

これは、リベラルアーツに限りません。[思考停止]も、[行動停止]も、[結局は停止]です。

勉強だけでなく、遊びも、食事も、睡眠さえも学びに変えてしまおう、という発想が肝になるでしょう。

 

・感情の動き

・情報や知識の流入

・疑問

・意見

・妄想

・噂

・会話

・スポーツ など

 

源流は[全て]なので、なんでもいいのですが、入ってきた情報に関して、[自分の頭で考える]ことが、リベラルアーツ実践の第一歩です。

[自分の頭で考え]、[アウトプット]し、[対話・議論]する。このような流れになっていきます。

ただし、何もかもを議論していては時間が足りません。

外の[全て]に目を配りつつ、[自コミュニティに関係のありそうな]、[質の高い]、[希少性のある・新しい]情報を取り急ぎ優先して、考え、アウトプットし、対話・議論すると、より効率的でしょう。

 

 

 

リベラルアーツで直接得られるもの2つ

 

幅広い応用

深い倫理素質

 

これは…深いです。これだけで何か成し遂げそうな語句です。たくさんの副産物がありそうですね。

 

 

 

リベラルアーツで副次的に得られるものの例

 

・寛容な価値観(拮抗は共依存、ということがわかる)

・自己分析

・興味

・議論

・新しい価値

・信頼 など

 

リベラルアーツで何が得られるか、何を得たいか、あなたも、あなたの頭で考えてみてください。

 

 

 

まとめ

専門分野こそ学びだ、という教育を受けてきたのなら、今更リベラルアーツを[学び]の根底に据えるのは難しい、と絶望する人もおられるかもしれません。僕も、一度はそういった発想になりました。

しかし、リベラルアーツをよくよく調べるうちに、「これは、学びの中に空白を作る《遊び》だ」と思ったのです。

 

AIの時代がもう、目の前に来ている、と言われています。

AIとは、人工知能のことで、AIは人間よりも問題解決が得意だと言われています。

ならば、人間には、[問題を解決する能力]よりも、[問題を見つけてくる能力]が求められると言えるでしょう。

 

リベラルアーツは、[脳ハック]なのです。リベラルアーツもまた、自己の人生の余白を意識して明確化することによって、社会的に有益な[偶有性]を生みやすい状況に持っていく手段なのです。

 

[リベラルアーツ]と[メカニカルアーツ]は表裏一体となってようやく価値を生み出すものだと思っています。

特に現代の日本社会は、政治、教育、報道などがわりと迷走している感があり、そこに多くの人が巻き込まれて、迷走して、広い視野になれなくて、結果、一時的な安全策として、専門分野に留まりやすい傾向にあるのかなと思っています。

多くの人は、学力観や偏差値を重んじる傾向が強く、かつ応用が利かない…これは、現代社会の抱える、長年かけてこじれた[メカニカル崇拝バイアス]なのです。

[メカニカル崇拝バイアス]のおかげで、リベラルアーツまでもが専門分野に分類されているというのは、ちょっとシュールです。もし世の中に[ラッキー]があるとすれば、こういったシュールな状態に逆張りできた人の元に、ラッキーは起こるのではないか、と思うのです。

 

例えば、[目的地に向かって集団で歩いていたけど、視野を広く持っていたおかげで、事故を防げ、意外なきっかけから、歩くよりも有効な交通手段を発見する]といった感じでしょうか。

または、車の運転に例えると、[いくら運転技術とか車の構造に詳しくても、地図がなければ、めちゃめちゃ道に迷ってしまって目的地まで辿り着けない]でしょう。

AI時代が本格的に到来すると、今までロボットのように指示のまま働いてばかりいた人が、やはり、苦境に立たされると言えてしまうでしょう。

 

人の行く裏に道あり花の山という投資の格言があります。多くの人が同じ方向を注視している時にこそ、その状況を疑い、裏側にも目を配る発想を残しておきたいものです。

 

そして、どうせ学ぶなら、楽しく、苦痛を味わうことなく学びたいですよね。リベラルアーツは、好きなことだけで生きていく」といった生き方にも、大いに共通する学び方ですよね。

 

 

さいごに

松下幸之助さんの名言を紹介します。

 

“学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である。語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さい事にでも、どんなに古い事にでも、宇宙の摂理、自然の理法が密かに脈づいているのである。”

 

…全ては脈づいていて、自分の学ぶ心次第で繋げることができる、ということですね。深くも学び、広くも学び、世界を拡げていきましょう。