教科書に載せたい話題

マインドフルネスに関してのメモ

マインドフルネスに関しての覚え書きです。マインドフルネスに関しての理解を深める材料として、書き留めておきます。

 

✔死ぬまで閉じない自己

脳科学の研究で、脳の組成は、生涯を通して決定してしまわない、ということがわかりました。

「年を取ると自我が固まる」というのは幻想で、年齢を重ねても、チャンネルは開いている。ある程度のトレーニングで、前頭前野が厚みを持つのです。

自分は閉じているもので、個人が環境の中に入っている、というのは、幻想なのです。

つまり、いつまでも変わっていくということです。これは、ポジティブに捉えられますし、何かに執着することは愚かだと言えるのです。

 

 

✔世界を外から見ること

南部仏教が入ってきたのはここ20年です。
心が悪さをする、これは仕方ありません。じゃあ体。体を酷使したりコントロールすることが日本の仏教でした。日本の仏教では、心が手付かずでした。

良いもの、悪いものに、強く強く反応してしまう。強い反応が苦しみを産んでいるのだとしたら、じゃあ逆をすればいいということです。好き嫌い無しに、評価なしに、反応なしに、ありのままに。

しかし、それは理想論であり、本質的には無理です。

世の中は、自分達で作った、映画のようなものなのです。

ゴジラを作った監督はゴジラは怖くないけど、作ったことを忘れてしまってゴジラに恐怖している監督のようになっているのが我々なのです。

外から見れば怖くないけど、登場人物として生きている限りでは、マインドフルネスは無理です。

監督と登場人物、最新のマインドフルネスでは、この二人の存在が見えてきています。

日本の求めてきたものが、禅とマインドフルネスによって、見えてきた。非常にホットな話題であると言えます。

 

 

✔照顧、脚下

自分の今してることに気付くことです。

何をしているかを気付くために、今していることと別の方法がありますよ、というのがマインドフルネスなのです。日本人は元々知っていたことなのに、ローマ人から逆輸入して飛びつくことは、寂しいことです。

定義や目的は十人十色です。ある人は落ち着くため、ある人は集中力を高めるため。または覚醒したり、気付くこととしたり。

日本の歴史としては、「まずは座ろう」となって、いつの間にかその本質は忘れられてしまいました。

座って、呼吸に心を置いとこうとすると、すぐに違うことを考えてしまう。しかしこれは、失敗ではなく、新しい気付きなのです。ところが、これを教えない人が多い。集中することだけがマインドフルネスではないのです。

ひとつのゲームの中でだけ、ストレス、ノイローゼ、仕事を改善させるためにやりましょう…というのがマインドフルネスと誤解されてしまっている。

ハムスターの走り車の中でやってるのは、マインドフルネスではありません。降りればいいのに、それをしない。それが今の認識の問題なのです。

 

 

✔メタ認知との違い

メタ認知は、所詮世界の中です。例えるなら、3メートルぐらいの高さです。確かに、所属的にアジャストされたマインドフルネスもありますが、20年前にやってきたマインドフルネスは、同じ空間の違う高さではなく、同じ空間ではない、別の次元から見ることなのです。

宗教では、生死をも超え、生きている人は、永遠に死なないと言いいますが、そんなことはあり得ません。
違う世界がもう一つあって、二重構造になっていると考える。そうすると、宗教の考えも理解することができるでしょう。

 

 

✔スポーツは、禅なのか?

スポーツをする中で、悪さをする心を咎めて、身体の充実を図ることがあります。その過程で膳が腑に落ちる場合はあると思います。

[頭]に閉じ込められた自己から開放されたのが体なのだとしたら、その通りです。

 

 

✔シリコンバレーでの流行

スティーブジョブズですね。ビジネスに特化させて研修にも取り入れました。マインドフルネス界でも、ジョブズは特別な人だといった声があります。

シリコンバレーでの源流は1960年代のストレス軽減療法で、意外と厚い文化があるのです。集中力や不安の改善だけではなく慈悲の心まで、といったような、単一用途からの揺り戻しも早く、認識には意外と厚みがあるようです。

むしろ現在の日本のほうがビジネスライクで、主要な用途が「出世」に向かってしまっています。どちらにせよ、現状、本質的な禅はマイノリティだと言えます。

 

 

✔無目的的な価値を守るために禅は有効か

ニンジンを追っている小さな自分を抜け出すことが禅なのです。禅を取り入れることで、ひとつの目安にはなるでしょう。

 

 

✔悟ろうとすること自体があざといのか?

それは完全に段階的です。

最初は、強い喜びを感じます。オアシスのように。しかしオアシスの水を飲むと、静かな喜びになります。そして喜びは、なくなります。それは無感動ではなく、深い深い感動なのです。

 

 

✔禅を持ち寄るとどうなる?

現代人の特徴として、富や名声よりも、夢中というか、接続されている喜びが深いといいます。

禅の方法はたくさんあるが、持ち寄ると普遍的になります。普遍的になると落とし穴ができます。落とし穴に落ちないためには、慈悲がないとちょっと危険です。慈悲があれば、健全な方向に進みます。

慈悲の瞑想というのがあって、慈悲を深める方法があります。

 

 

✔慈悲の瞑想とは?

・私が幸せになりますように
・私が好きな人が幸せになりますように
・私を侮辱した人が幸せになりますように
・生きとし生けるものが幸せでありますように

簡単に述べると、上記のような瞑想です。もちろん、できるわけはなく、はじめは全くできなくて、でもちょっとできてきて。そうなると自分がちょっと変わってきて。といった、少しずつの変化です。

 

 

✔慈悲とは?

ゲームに戻ることです。禅僧としてゲームに戻るためには、ゲーム内での違うルールを設定します。

そのひとつのキーワードが慈悲です。

キリスト教でいう隣人愛。神を愛し、神に愛されていることを実感しそれを共有する。
この慈悲の瞑想が食い違っている場合もあります。

立って木から見る、といった、親に近いものがあります。

サクソンは言いました。

「私が死んだら、自己を拠り所にしなさい」

無我なのに?と思うかもわかりませんが。ご先祖様でもなく、会社でもなく、[今、ここ]これしか拠り所は無いのです。

 

 

✔自己と自然は一体化するのか?

日本の場合、禅において歴史的に心を扱えなかったので、残ったのは身体と自然でした。身体と通して自然を知っていく方向性が深かったのです。

でも今は、小さな自分を手放す方向がハッキリしました。身体も、自然も、入り口なのです。

日本は、自然と身体は結びつけやすい風土にはあった、とは言えるでしょう。

 

 

✔まとめ

人には興味ないけど、なんだか優しい

人物像を投影すると、そんな印象でしょうか。マインドフルネスは、時代を創る重要なキーワードになる気がしています。