突然ですが、わたくし、思想家デビューします。
前置きしておきますが、今日の文面は(も?)かなり乱暴です。ただ、日本の社会構造問題に、大きく斬り込むべくして提唱する理論です。わかる人には、わかってもらえるかな?というぐらいの気持ちで書きます。原動力は、個人的なストレスです。いつもは実用的な内容を入れてお伝えするのですが、今回は思想だけで終わってしまうことをご容赦(?)ください。
テクノロジー発展の究極目的は、自然体で生きられること。すなわち猫だ。
猫理論をここに提唱する。
全ての理論は自然体につながる。
身近な自然体と言えば、猫。
猫理論は、どの理論も肯定する。その反面、
猫をバカと呼ぶ者はどれだけいるだろうか?
バカの定義は諸々あるが、中途半端に理論を身につけて、その凝り固まった理論を
学べば学ぶ程にバカになるリスクが高まるのだ。
ネジがバカになるとかいう言葉があるけど、噛み合わないものをいくら回しても、摩耗するだけだ。
ただ、ネジをセットする行為は、さらなる高度な自然体に近づくチャレンジであり、
全くの無知がバカなのではなく、ひとつの知識に依存して、
なので、バカの反対は自然体=猫なのだ。
もちろん、私は今、バカの極地に身を置いてこの文を書いている。
ただ、この理論が覆される時は、人類のテクノロジーが発達して、
この世の中で、猫をバカとディスったり、
そう言えるほどのバカな人間を、日本の社会構造は量産してしまう仕組みになっているのだ。
『バカな人間』つまり、地球上で最も脳が発達している『人間』が『バカ』になっている状態。これがいかに問題か。
ざっくりと言ってしまうと、「サラリーマン特化型教育により、物も情報も放出できない、アウトプット皆無でスループット処理余力ゼロの人が大量発生している」状態なのだ。
私自身もこれにしっかり嵌まっている。この状態だと、実感として、脳が不幸を感じるのだ。理想と真逆に近い感覚さえある。今も、情報を放出するのが苦手で、よく行き詰まる。現実逃避する感覚で、なんとか言葉を捻り出している。
猫理論は、自然体で生きる、という思想の前段階のつもりだ。まだテクノロジーが追いついていないため、
日本では近頃、ミニマリストという概念が生まれている。「モノを捨てて、自由になる」という考えだ。大前提として『平和』や『信用』が欠かせないが、確かにこれも、シェアリングエコノミーなどテクノロジーの発展を活かして自然体に近づく、素晴らしい理論であり、非常に興味深い。
『平和』や『信用』にレバレッジをかけて生活することこそが自然体理論なのかもしれない。
この記事を書いている今、日本列島に超大型の台風(カテゴリー5)が来ている。小売店の食品棚は、備蓄用の買い漁りが発生して、どこも空っぽになってしまっている。何度、同じことを繰り返しているのか。これも、広く見ればバカである。ただ、バカなのは行政だ。役所に一定の信用はあるだろうから、「有事には配給がある」と皆が認識すれば、国民の安心感は増え、買い漁りなどの浪費は抑制され、一気に幸福で安定した社会が実現する。
この理想は高いのかもしれないが、私は日本はけっこうマジでこのフェーズにあると思っている。こんなことが想像できる国、世界で日本ぐらいじゃないかな。
モノが多い=豊かという理論はもうとっくに終わっている。これには異論が無いはずだ。
ならば、カネはどうか?なぜ備蓄する必要がある?不安だからか?平和じゃないからか?
なぜ、株価を吊り上げようとする?
資本主義の最大の功績は、テクノロジーの加速だ。
アイデアの期待値に投資が集まり、トライ&エラーを繰り返す。時に、過度な投資が大きな破滅を呼ぶこともある。信用が減退した時には、信用を再構築するために改革をする。投資は何千%も集まったりするが、信用は100%がMAXだ。
個人も、企業も、国家も、同じではないのか?
景気の減退を、必死に食い止めてどうなる?
レバレッジにレバレッジをかける行為も、資本論的にはアリなのだろうが、ミスしたら、謝罪して反省するのが筋なのではないのか?
一度信用という等価交換に立ち戻って考えることはしないのか?
悩みを抱えた人が、誰にも相談しなかったらどうなるのだろうか?
猫なら「にゃー」と鳴くだろう。
日本人は、不自然な状態にもっと敏感になり、もっと放出=発信すべきだ。そこから学ぶことは、本当に多い。教育には無かったこと。だけど、本能には刻まれている。我々は、脳が不幸だ。
想像は自由だし、全く無責任なものだが、今の日本人に最も足りていないのが、独自の理想論や、想像だと思う。遠慮も恥も、摺りこまれた不自然な風習だ。全て捨てる必要はないが、恥を忍むべき時はあるはずだ。
アウトプットすることで、情報が整理され、脳が『最適化』されるのだ。
『脳の最適化』は、自己の信用につながる。
『自己の信用』は、チャレンジにつながるのだ。
例えば、「日本は元々90%が森だ。そして遺伝子の魔改造が得意だ。なので、森に戻し、木を魔改造した家に住むべき。」のような暴論みたいな三段論法が飛び交って、本当に資本と技術が集まって、世界に先立って専門家による議論や研究が進められたりするようなポテンシャルや民度が、世界で最もある国だと思っている(けっこう子供の頃から)のだが、買いかぶり過ぎていたのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。
そんなポテンシャルを発揮するためにも、資本主義の恩恵を最大限に活用しなければならない。そのためには、『猫のような自然体』であるべきという理念を全てのベースに据え置く、という理論だ。民主主義では、難しい議論になればなるほど、シンプルで自然体な論法が求められるべきなのだから。
誇張してばかりの人間では、信用は獲得できないのだから。
異論はもちろんあるだろう。私はただの凡人で、薄学なので。